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高野・熊野の2つの聖地を結ぶことから小辺路

高野・熊野の2つの聖地を結ぶことから小辺路は『修験の道』[8]としての性格をも帯びており、修験宿跡や廻峰記念額も残されていると伝えられている[9]。しかし、小辺路の起源は、もともと紀伊山地山中の住人の生活道路として大和・高野・熊野を結ぶ山岳交通路が開かれていた[10]ものが畿内近国と高野山・熊野を結ぶ参詣道として利用され始めたことにあると考えられている[11]。
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小辺路の生活道路としての形成時期ははっきりしないが、小辺路が通行する十津川村・野迫川村の領域に関係する史料には8世紀にさかのぼるものが見られ[12]、また、周辺に介在する遺跡・史資料などから少なくとも平安期には開創されていたと考えられている[10]。このことを裏付ける傍証として第21代熊野別当であった湛増が高野山往生院に住房を構えていた史実や、現在も小辺路からの下山口である八木尾口(田辺市本宮町)に正慶元年(1332年)に関所が設けられたことを伝える史料の記述(『紀伊続風土記』)[10]がある。さらに正保3年(1646年)付の『里程大和著聞記』[13]は郡山藩主本多内記と高取藩主上村出羽守が幕命を受けて紀和国境のルートを調査した文書だが、この中には「中道筋」なる名で小辺路がとり上げられている。

中道筋 紀州境やけ尾越ヨリ 同コヘド越マデ道法、是は熊野本宮ヨリ高野ヘ巡礼道

? 『里程大和著聞記』[10]

『里程大和著聞記』の記述には「道幅一尺」「難所」「牛馬常通不申」といった表現が繰り返し見られ、険しい峰道か峠道、あるいは獣道程度の道でしかなく、困難な道であったことが分かる。また小辺路で最も南にある峠である果無峠は果無山脈東端の峠であることから、果無山脈伝いに龍神方面(田辺市龍神村)からの往来があったという。この道を龍神街道果無越といい、龍神方面と吉野・熊野および高野山とを果無峠および本宮(田辺市本宮町)を経由して結び、修験者や大峯参りの人々が行き交ったと伝えられている[14]。

この他、特筆すべきものとして木地師[15][16]や杓子屋[16]の活動の道であることも挙げられよう。木地師とは、山で木を採り椀や盆などの木製品に仕上げる職人で、奥高野から吉野にかけての山域には近江国小椋村(滋賀県東近江市永源寺町)を本拠地とした江州渡(こうしゅうわたり)木地師と呼ばれた人々が大正の頃までいたという[16]。近世の参詣記にもこうした木地師がいた事が伝えられている。

おばこ峠 木地の挽物する者あり、五六人つれて山へ人参堀ニ行く者有〔後略〕

? 『三熊野参詣道中日記』[17]

木地師たちの本拠地である小椋村では木地師の免状や鑑札を発行するとともに、各地の木地師のもとに奉納金を集める使者を送り出した。その記録として「氏子駈帳」なる文書が残されており、1893年(明治26年)まで250年間に渡って計87冊・3万世帯に及ぶ記録が残されている。上に引用した『三熊野参詣道中日記』から10年後にあたる宝暦8年(1758年)付で、3名の木地師の名が記録されている[18]。その他にも野迫川村全体で1707年(宝永4年)から慶応3年(1867年)までの160年間の間に32回の氏子駈の記録がある[19]。

近世まで [編集]
皇族や貴人の参詣道として利用された中辺路と異なり、小辺路は生活道としてはともかく参詣道としては近世以降に利用されるようになった道である。また、同じ近世以降の熊野参詣道でも文人墨客の道として利用された大辺路などと異なり、小辺路はもっぱら庶民の参詣道として用いられた。こうした事情から小辺路の記録は潤沢とは言い難い[20]。

源氏との戦いに敗れた平維盛が密かに逃亡の道としたとする言い伝えがあり[21]、それにちなむ史跡があった[22]ほか、平という集落には維盛の落人伝説がある[23]。また元弘の乱(元弘元年〈1331年〉)に際して後醍醐天皇の王子護良親王が鎌倉幕府の追討を逃れて落ちのびた際に利用したとも伝えられる(「大塔宮熊野落ちの事」『太平記』巻第5)[24]。しかしこれらは、あくまで伝承にとどまる。

確実な参詣の記録として最古のものは16世紀にさかのぼり、伊予国の武将土居清良が戦死した父の菩提を弔うために高野山を経て熊野三山に参詣したとするものである[25]。土居清良は伊予国領主の西園寺氏に仕えた西園寺十五将のひとりである。土居氏は紀伊国牟婁郡木本土居(三重県熊野市)を発祥とし、熊野三党の一家・鈴木一党を祖とすると伝えられ、熊野三山を篤く信仰していた。清良の参詣記は清良の一代記『清良記』巻十七に収められている。清良はまず高野山に参詣し、さらに大嶽(大滝)・大股を経て五百瀬(いもぜ)で神納川(じんのがわ)を渡って多量の弓を購入し、矢倉に一泊。「柳本(やぎもと)の渡」から「はてなし山」(果無峠)を越えて「焼尾谷」(八木尾)に下り、本宮に参詣したとしている。この後、清良は那智・新宮を巡拝し、先祖の故地である木本土居を訪ね、伊勢に向かっている[25]。

次いで天正9年(1581年)には、毛利氏の家臣玉木吉保が京都から伊勢に詣でた後、新宮・那智・本宮を巡拝し、高野山奥ノ院に参詣したことが知られている[26]。吉保の参詣記は、一代記『身自鏡』[27]に記されたもので、地名が明言されていないが、7月10日に新宮に到着し、14日に高野山に到るという日程や経路[28]から見て小辺路を利用したことは確実である

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2009年03月17日 12:44に投稿されたエントリーのページです。

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